paradigm design lab

日々の暮らしの中からふと浮かんだ思考を集めています。

‐ とある街角で、哲学する。‐

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ー平成の終わり、変わらぬ街、変わらぬ時間ー 

 

新しい哲学が生まれると誤謬から開放されて善意の人々が敵対的な二陣営に分裂している状態を打破するだろう。 (「哲学の改造」ジョン・デューイ著 岩波文庫

 

 平成が終わった。何かが崩壊する訳でもなく、予定通りに、淡々と。

 

 今日5月4日は新しい天皇と新しい時代を祝いに、皇居前に14万人が一般参賀として集まったらしい。大阪に暮らす私としては全く実感がなく、ただ、TVの中で繰り広げられる別世界を「変わっちまったなぁ。参ったな。」といった、間の抜けた表情で眺めているだけだった。

 

 目下、8連休の中日という事もあり、筋肉が堕落していく感覚と細胞レベルで退屈している身体が客観的に実感され、家に篭っているのも勿体ないような気がしたので、出不精で行動半径が狭いなりに、行きつけの近くの茶店に向かうことにした。

 

 茶店の名前は「RENGA」といい、昭和40年代あたりに建てられたビルを、リノベーションと言うには余りに陳腐な改装をした、5階建ての謎なビルの1階にある。

 

 ビル自体は2階はヘアサロン、3階はネイルサロン、4階は古着屋、5階はギャラリーのようだが詳しくは知らない。隣に駐車場があるために、ビルの壁面が剥き出しになっており、その剥き出し感を隠すかのようにビルの壁面はペンキで黒く塗られ「1F-CAFE、2Fーsalon…」等と入居テナントの内容が、美大生のバイトが描いた様なデザインで、申し訳程度にペイントされている。

 

 RENGAには4年ほど月2回は通っているが、マスターの名前は知らない。またマスターも私の名前は知らない。「まいど!」と「空いてるお席にどうぞ!」という掛け声に対し「こんちゃーす。」という具合の関係だ。店に入ると、私が座る席は決まっている。一番奥の3つの二人掛けの座席の、一番右だ。丁度いい具合に「私の」席が空いていると、マスターもバイトの女性も「どうぞ。」と言わんばかりに、おしぼり、お冷、灰皿の三点セットを「私の」席に運んで来てくれる。

 

 どしっと「私の」席に腰かけ、おもむろに注文がありそうな顔をすると、バイトの女性がやってくる。そして「いつもの…ですよね?」と言いたげな顔でこちらの様子をうかがった後、サービス業としての形式的な、非の打ち所のない面持ちで「ご注文はいかがされますか?」と尋ねてくる。私は「(言わなくても分かるだろうが)アイスカフェオレとピザトーストで。」といつもと同じ調子で答える。このやり取りには意味はない。客と店員という関係と一定の距離感を保つ為の「儀礼」である。

 

 席に陣取り、手帳型ケースに入れたスマートフォンと、W05というWi-fi、CRAZY BABYという白いワイヤレスイヤホンを取り出し、煙草を一本吹かす。アイスカフェオレが来るまでの間、塩梅の良さそうな音楽をリストから探す。今日はツイッターのフレンドであるフェロイさんが「最高」と言っていた「The National」の「HIGH VIOLET」というアルバムの1曲目、「Terrible Love」をセットした。FUZZの効いた、敢えて篭らせたようなギターと、シンプルなコードのリフレインを奏でるピアノ、解放弦の響きを上手く取り入れたギターアルペジオのアンサンブルが、それぞれ主張し過ぎず調和しており、音空間の広がりを感じ、心地良い。

 

マルクス・アウレリウス「自省録」ー

 

 届いたアイスカフェオレを飲みながら、気怠い休日に丁度いいような本を探す。昨晩はマルクス・アウレリウスの「自省録」を寝る前に読んだ。ストア哲学を学んだローマ時代の皇帝、マルクス・アウレリウスが人生の後半に、自らの戒めとするような言葉を紡ぎ、誰にも見られる事のない「自省録(反省ノート)」としてしたためたものだ。

 

 アウレリウスは古代ローマを善く統治した「五賢帝」と呼ばれ、また彼が残した「自省録」の質の高さから、ストア哲学で理想とされた「哲人政治」を実現した皇帝としても後世に名を残している。その言葉は現実の執務上の格闘と、元老院など宮廷の人間達との軋轢、また本来は哲学者を目指していた彼の哲学的理想と現実とのギャップ、日々の気付きや葛藤および考察を、彼が修めた修辞学に基づいた丁寧な言語表現と、飾らない自己内観の生の言葉で記されている。例えばこんな具合だ。

 

「怒るのは男らしいことではない。柔和で礼節あることこそ一層人間らしく、同じく一層男らしいのである。そういう人間は力と筋力と雄々しい勇気とを備えているが、怒ったり不満をいだいたりする者はそうではない。なぜならばその態度が不動心(アパテイア)に近づけば近づくほど、人は力に近づくのである。」(「自省録」マルクス・アウレリウス著 岩波文庫

 

 彼の言葉からは時の為政者として、前任の皇帝から皇位を継承し、インペラトール(最高司令官)として統治するにあたって、周囲の政治家と協調的に職務を遂行する為の実践的な処世術と、ストア哲学の理想のバランスを取ろうとした苦労と内省の跡が垣間見える。

 

 この言葉のリアリティはキリスト教の禁欲主義が浸透する前の、ストア哲学が実践的なものとして残っていた時代の空気と、自省録という対外的に出版するものではない著作の内省的性質から、奇跡的に生まれたものだと言える。不動心、名誉、死、宇宙といった超越論的な内容を「恥ずかしげもなく」生き生きと自己に語りかけ、一日を終える。カント批判哲学以降では忘れ去られた、形而上学ではない生身の「生」の言葉は、一人の人間としての生き方を後世の人間に突き付けてくるのだ。

 

ー大阪哲学同好会とプラグマティズム

 

 さて、昨晩の読書を回想している間に、注文したピザトーストが届く。この店のピザトーストは、トーストの四隅がカットされており、持ちやすく食べやすい。周囲の客を見渡すと、シフォンケーキを食べているOL2人組や、珈琲と煙草を飲みながら、ガラケーで何やら仕事の話をしている(が、恐らくトラブルで半分キレている。)建設会社の日に焼けた男など、統一感の無い相変わらずの風景だ。

 

 「そういえば…。」と私は思い出し、ツイッターのログを見直す。そこには大阪哲学同好会の6月から始まる勉強会「プラグマティズム W・ジェイムズ読書会」のお知らせがリツイートしてあった。ああ、これだ。

 

 私は4月から「大阪哲学同好会」という哲学書の読書会に参加させて頂いている。きっかけは、またもツイッターで知り合った横山さんという方(「独今論者のカップ麺」という横山さんのブログは哲学好きは必読。ヴィトゲンシュタインやメイヤスーなどの論考が丁寧に纏められている。)のログとブログからその存在を知り、3月に思弁論の関係で読んでいたショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」に関する読書会がある事を発見して「これは行かなくては!」と人見知りなりに思い立った事を発端としている。

 

 大阪哲学同好会では火雨さんという若手の批評家の方や、目力があり体格のよいナイスミドルの横山さん、カントに精通した年配の高校教師の方、哲学科で修士まで行かれた方など10名前後でテーマを決めて、読書とプレゼン、ディスカッションなどを行っている。プレゼンテーターのプレゼンの最中に、質問や横槍という名の各自の論理展開や、他の哲学者との比較など、闊達な議論がなされる。(大阪哲学同好会については今後、読書会毎に書いていく予定。)その哲学同好会の次回のテーマがウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」なのだ。

 

 「プラグマティズム」は実用主義の哲学だ。一つの命題を立てたとして、その命題の真偽を問うには、その命題がもたらす結果が有用であればよいという考え方と言えばいいだろうか。非常に素朴だがアメリカでは浸透し20世紀を形作る哲学となっている。

 

 パースが提唱し、ジェイムズが普及させ、デューイが完成させアメリカ社会に実装させたプラグマティズムには、個人的に学生時代より興味があり、冒頭のデューイの言葉が載っている「哲学の改造」は特におすすめで、松岡正剛の「知の編集工学」やジャン・ボードリヤールの「消費社会の構造と神話」と並ぶ、私を形作ったマイフェイバリットでもある。

 

 とはいえ、次回の課題図書であるジェイムズの「プラグマティズム」については、電子書籍でペラペラと流し読みをした事がある程度であり、ジェイムズの主張については「その命題がもたらす結果が有用なものであれば、神や信仰といった命題も真である。」という言葉に集約されるように、アメリカ社会に通底するプロテスタントの信仰を肯定することで、プラグマティズムアメリカ社会に浸透するきっかけを作った、というようなざっくりとした理解だった。

 

 「課題だしな。精読するかな。」と二杯目のアイスカフェオレを飲みながら、電子書籍をペラペラとスクロールしていると、以下の文章が目に留まった。

 

 哲学は人間の営みのうち最も崇高なものであると同時にまた最も瑣末なものである。それはごくささやかな片隅で働くが、また最も広大な眺望を展開する。よく言われるとおり哲学は「一片のパンをも焼きはしない」、しかし哲学はわれわれの心を鼓舞することができる。(「プラグマティズム」W・ジェイムズ著 岩波文庫

 

 ハーバード大学で教授を務め、当時一流の知識人であり、社交界でもスターであったジェイムズらしい、修辞学的に整った丁寧で綺麗な文章だ。しかも直観的に伝わる熱量もこもっている。素晴らしいと素直に思った。

 

 では何が素晴らしいと思ったのかと言われると困るのだが、私の抽象的な感動をパラフレーズするなら、哲学の効用を、熱量を込めて、明確に訴えているからだと言えば良いだろうか。ジェイムズが言う通り、哲学はパンを焼けない。哲学は実用性や実務性はかなり薄い。リアリスティックに言うなれば哲学で食っていく事は、一握りの人物にしか許されてはいない。しかし、私達の「心を鼓舞する」という明確な効用があると断言されると、いかにもそのような気になってくるものなのだ。

 

 ー日常への回帰、5月4日ー

 

 そんな事を考えながら、ふと周囲を見渡すと、店内は客の数は減らないものの、客層は一周回って全部替わっていた。OL2人組はミセスの3人組に変わり、いらついていた建築会社の男は、買い物帰りの雰囲気のカップルに、またバイトの女性はピークタイムの勤務を終えて、マスター一人になっていた。一人ピザトーストとアイスカフェオレで長居をするのも気まずいので、テーブルを片付け、肩掛けバッグとポケットに例の3点セットを仕舞い、お会計の準備をした。

 

 「1000円になります!まいどあり!」というマスターの声が響く中、RENGAを後にした私は、駐車場を過ぎて薬局を曲がり、松屋町通に突き当たった。そしてベビーカーを引く若い母親やスーツケースを持った中国人、高そうな自転車に乗った若者を尻目に一人、松屋町通りを北進していった。

 

「心を鼓舞する哲学か。」

 

 大阪の中心から少し外れた、松屋町通りと長堀通りが交差するいつもの交差点で、雑踏に紛れてそんな事を思案しながら、目に映るのは、平成が終わっただけの、代わり映えのない、いつもと変わらない街並みと、いつもと変わらない時間だけだった。

 

 2019年5月4日。新しい時代とやらは、まだ3日とちょっとしか経っていない。

 

 

                          Written by Daigo Matsumoto