paradigm design lab

日々の暮らしの中からふと浮かんだ思考を集めています。

ー「パーク・ライフ」を批評するー

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 今回取り上げた作品、吉田修一氏の「パーク・ライフ」は私のフェイバリットとも言える作品だ。吉田修一氏については多くの人がご存知だろうが、本作品はそのデビュー作でかなり昔の作品であり、若い読者の方には知らない方も多いだろう。まずその概要を説明したい。

 2005年に出版された吉田修一氏の「パーク・ライフ」は氏の初の単著であり、東京という大都市の真ん中に位置する「日比谷公園」を舞台に、精密なシーン描写と人間の背面にある心理、また、当時の時代の空気を圧倒的な筆力で書き上げた短編として、2005年の芥川賞を受賞した。この作品により注目を集めた吉田修一氏の以後の活躍は述べる必要はないだろう。ポスト現代文学を牽引する日本を代表する文学作家である。

 この作品の最大の特徴としては、のちほど後述するが、(そして最大の主題となるのだが)主人公の「名前がない」ことが挙げられる。主人公の名前は作品中に一度も出てこないのだ。
ただ属性としては何点か記述されている。

・30歳前後の恋人などもいない男性。
・浴室芳香剤などを取り扱うメーカーに企画兼営業として勤めている。
・東京は地元ではない。大学卒業後にそのまま東京で就職している。

 以上の属性が主人公を構成する要素である。次に物語の主役となるのが、主人公が山手線でたまたま出会った「スタバ女」。彼女もまた名前は作品中に一度も出てこない。かなり主人公とは正反対の性格で、思い付いたら躊躇なく動きはじめる行動的な女性だ。また脇役としては、上司の近藤(男)と、主人公がマンションを一時預かることになる宇田川夫妻、そして主人公の初恋の相手ひかる、主人公の母、公園で出会う風船の実験をしている謎の老人などで構成されている。

 物語の本線としては、山手線の電車内で主人公が間違えて話掛けた相手が、スタバ女であり、その場は彼女の機転の効いた対応で、上手くやり過ごせたのだが、主人公は彼女が電車を降りた後も、彼女の事が気になっていた。その後、彼がほぼ毎日利用している日比谷公園で、偶然に彼女を見かける。そこから頻繁に公園で会う関係になり、物語の本線が進んでいく。

 次に、物語の伏線としては、主人公の知り合いの夫妻が一時別居している間、部屋にいるペットの猿「ラガーフェルド」の世話を頼まれ、2LDKの広い部屋を夫妻が戻るまで夫妻のマンションで過ごす、その生活シーンが伏線となっている。

 全体としては主人公の日常に訪れた二つの出来事が、いくつかの非日常な偶然を呼ぶ、シティライフの群像劇とも言えるだろう。しかしながら、その描き出された世界観は、日常の中に訪れた偶然の出来事によって、少し地上から5cmほど浮遊したような、独特の浮遊感と透明感を身に纏っている。
 
 ここまでが概要となる。さて、ではこの名作「パーク・ライフ」を読み解いていこう。さしあたり、ここから問題となってくるのは、主人公の心情と行動の分析についてだ。この物語において、主人公の心情や感情の揺らぎについての描写がほぼ全くといっていいほど描かれていない。また行動についても、ほぼ主人公の日常に関することであり、その行動に主人公の強い情念や主体性は見られない。物語はほとんどすべて偶然性によって進んでいくのだ。ここが多くの文学作品と違う特徴と言えるだろう。

 もう少し解体しよう。そして主題に接近を試みよう。主人公の心情や感情の揺らぎがほとんど描かれないとはどういうことか。前述したように、主人公には名前がない、つまり匿名である。そう、主人公は「誰にでもなり得る存在」として設定されている。彼は比較的空想癖のある人間で昔の恋を少し思い出したり、公園で考え事をしていると、もしや他人に心の中を覗かれていないだろうかと妄想したりもする。そして普段は満員電車で吊り広告を眺めながら通勤し、独り身に一抹の寂しさを感じながらも東京の生活を楽しんでいるという、あまりにも東京的な標準的ライフスタイルと実存の持ち主なのである。仕事をし、スターバックスのコーヒーを飲み、都市的に生活をする。換言するならば時代と日常および東京という都市に漂泊する現代人の典型的な実存のパターンを象徴している。

 主人公に名前がないように、その実存はなにものでもなく匿名的であり、固有名のある人物ではなく大都市東京を漂泊する「人間A」に過ぎない。この東京という都市に固有名を剥ぎ取られた、匿名的な「人間A」としての希薄な実存。単調な日々の繰り返しに主体的に変化を起こす訳でもなく、ただ何か自己が自己であることを確認させてくれるような偶然性をぼんやりと期待する、そのメシア的偶然への渇望。このような、大都市東京を漂泊する「半透明な実存」を抱えた現代人の、典型的な心象風景を描き出すことがこの作品の主題だと言えるだろう。

 その「人間A」に偶然性をもたらすのが、これもまた固有名のない「スタバ女」である。主人公は(これは文章として表現されたものではないが)スタバ女に恋慕とまではいかないが惹かれていく。これはお互いに漂泊者としての孤独感を抱えており、その孤独感を埋め合わせるような存在としてのスタバ女への、同じ孤独者としてのシンパシーであろう。そしてその二人の性格は対照的であり、主人公はスタバ女の行動的で予測のできない言動に引き込まれながら、日常から偶然性の世界に足を踏み出していく。
 
 では、もう一度作品全体について立ち戻ろう。前述したように、この作品の主題が大都市東京を漂泊する「半透明な実存」を抱えた現代人の心象風景を描き出すことなのだとすれば、それはどのように表現されるべきか。情念や意志、濃厚な実存、あるいは答えに向けて突き進み、隠蔽された因果律を紐解いていくようなサスペンスといった、一般的な文学のモチーフとして使われる媒介をなしにして、作者はどのように物語を語ろうとしているのか。

 ここからは技術論になるかもしれないが、作者の志向するものを解体していきたい。

 まず作者は主人公の情念や心情の波を極力消そうとする。そして、そういった情念や心情の代わりに、主人公の脳裏によぎった思考や、その主人公の周辺環境の特徴、象徴的なアイテムを入念に記述し、また対象の視線の動きや表情の変化、あるいは推察される対象の心の揺らぎなども細やかに描写する。さらには、対象との会話の裏側にある主人公の印象や思考の揺らぎなどについても、圧倒的な描写力によって丹念に記述していく。そのような描写を目の当たりにすると、読者はまるで、物語の世界を映画のように撮影されたものとして、物語を主人公の傍らで覗き込んでいるかのような感覚にも襲われる。 

 そのような物語における「環世界」の描写方法により、主人公の「半透明な(空疎な)実存」と「圧倒的なまでに細部まで描写された環世界」との間にコントラストを生み、「半透明な(空疎な)実存」と「その周囲の環世界」を現像前の写真のフィルムのように「反転」させることになる。つまり「半透明な実存」は環世界の中に埋没し、ネガとポジを逆転させたかのように「空白」となる。結果として「半透明な実存」は、読み手を主人公の視点に自分のことのように没入させる、格好の「余白」となるのだ。

 この「物語の余白」に投影された読者、つまり「物語の環世界」に引き込まれた読者の心象は、その環世界への圧倒的に緻密な描写によって、仮想現実的に物語の環世界に投げ込まれ、その環世界を体験として、あるいは脳内の映像としてありありと想像することができるようになる。その時「半透明な実存」は、読み手の色に染まっている。

 作者は物語に投影された読者を導くかのように、執拗にその物語の環世界におけるあらゆる表象を、まるで現実に存在しているかのようなリアリティで記述し続ける。その場所の風景と構造、対象の表情、心象的な雰囲気、些細な動作、会話の裏側にある心の振れ幅、キッチュなアイテム(例えばコーヒーであれば、スターバックスのカフェモカという商品名まで記述する)などを写真のように事実性に基づいて淡々と描写し、そして映画のようにカメラワークを何回も入れ替え、あるいは写真のコラージュのように(この場合は写真家デヴィット・ホックニーのフォト・コラージュをイメージされるのが適切だろう)シーンと視点の角度をつなぎ合わせる。これらのような重層的な描写は、環世界に奥行きと立体感を与える。そしてこれらの記述はコンスタティヴ(事実確認的)な言明として、その環世界を確定記述していく。

 その確定記述されたコンスタティヴな環世界は、物語に仮想現実的に没入された読者にとって、目の前に現前する世界の地面、あるいは把握された空間となる。そのことにより、没入された読者はパフォーマティヴ(行為遂行的)に物語の世界を歩きまわり、眺め、触れる体験をすることになる。例えば、主人公が「ガリレオ全集」を手に取ったとき、読者はその厚み、重さ、ページをめくる際の紙の質感などを、行為遂行的に追体験することになる。このような環世界に対する圧倒的に緻密な、コンスタティヴ(事実確認的)な描写によって、環世界を緻密に確定記述し、その世界に地面と空間、立体感を与えることにより、読者を誘い、読者にパフォーマティブ(行為遂行的)にその物語の中を彷徨わさせているのだ(しかもそれは確信犯的な作者の犯行である)。
 
 このような構造を持った本作品について、その全体の構造と世界観について追記したい。冒頭で私はこの作品の世界観について「その描き出された世界観は、日常の中に訪れた偶然の出来事によって、少し地上から5cmほど浮遊したような、独特の浮遊感と透明感を身に纏っている。」と述べた。しかしながら、この「浮遊感」と「透明感」はどのようにもたらされるのだろうか。

 「浮遊感」、つまり地面から5cmほど浮いているような感覚。この感覚の原因を探るならば、それは事実確認的に確定記述されたリアリティのある環世界と、偶然性によって進められる物語との「差異」の感覚として表現できるだろう。確定記述された、リアリティのある物語上の日常の世界に取り込まれているとき、そこに偶然性がなければ物語は始まらない。偶然性は読者の目の前に「可能世界」を提示する。淡々と延長される日常とは別のあり得たかもしれない別の世界。言い換えるならば、リアルな描写により事実確認的に確定記述された世界の中に、偶然性によって開かれた「可能世界」という、もう一つのパラレルな世界を現出させ、二つの世界を併存させているのである。

 

 つまり、リアルな描写によって事実確認的に確定記述された、物語の環世界という「仮想世界」と、偶然性によって導かれた行為遂行的な「可能世界」が、ひとつの物語の中に「共存―平行(パラレル)」する形をとるのだ。このリアルに描写された、事実確認的に確定記述された世界の明晰さやクリアさが「透明感」のような感覚を読者に与える。また「仮想世界」の中に「可能世界」という、もう一つの世界を幻視させることが「浮遊感」のような感覚を同じく読者に与えていると言えるだろう。
 
 この「仮想世界」における「可能世界」への二人の離脱―逃走のクライマックスとして、日比谷公園で赤い気球を上げようとしている謎の老人との会話がある。なぜ気球を上げようとしているのか聞いてみようと二人が話しかけると、老人はこの公園を上空から見てみたいのだと答える。二人はなぜなのかは問わなかった。しかし、スタバ女は推測する。きっとこの人は私たちの先輩なのではないのだろうかと。二人のように毎日この公園に通い続けた自分たちの先輩なのではないかと。

 このとき読者は「仮想世界」である物語における「可能世界」、つまり物語上の日比谷公園の中に、真っ赤な気球が上がるさまをイメージする。活字の世界の中に気球の真っ赤な色彩が幻視され、それを眺める二人のあり得るかもしれない未来を想像する。つまり「仮想世界」の中の「可能世界」の中に、「空想世界」という、さらにもう一つの世界を描き出してしまう。それは想像上の、思弁的な、この物語の世界観全体を包むような、超越的な視点とも言えるだろう。

 この物語は主人公とスタバ女が写真展に行き、帰る間際にスタバ女が以下ように呟くシーンで終わる。「よし。…私ね、決めた」。
 この物語に偶然性を与え「可能世界」への扉を開き続けたスタバ女が、ふと何かを決意する。主人公にはその意味は分からず、また作中に記されてもいない。しかし、主人公はこの言葉に、この物語を導いた偶然性と可能世界の終わりを予感する。そしてこの可能世界が続くように願い、叫ぶ。

「あの、明日も公園に来てくださいね!」

 その叫びはスタバ女に届いたのかは分からない。しかし、主人公の心の中で、スタバ女の呟きを反芻するとき、その言葉がよみがえり、主体性を隠蔽された主人公の中に、以下のような感情が(敢えて作者が表現してこなかった、その感情が)湧き起こる。

「まるで自分まで、今、何かを決めたような気がした。」

 

 この言葉は、今まで物語の環世界に引き込まれていた読者を、読者側の世界、つまりわれわれの現実世界に引き戻す。そして、この言葉は私たちの「現存在(Dasein)―実存」に再帰され、作者から私たちに贈与されたものとなるのだ。

 

 

 

Written by Daigo Matsumoto